当社代表取締役社長 吉田英幸のアクチュアリー半生の公開

2021年7月16日

雑誌『数学』/日本数学会編 51(3)1999.07「企業内の仕事・研究と数学」に寄稿した記事「私の生保アクチュアリーとしての23年間」 を公開いたします。

1.入社
私は、1976年4月に明治生命保険相互会社に入社し数理部に配属になり、いわゆるアクチュアリーの卵として仕事をすることになりました。アクチュアリーについては、リクルートの雑誌で確率・統計を使う仕事と紹介されていましたので、確率論を専攻したわたしとしては最適と思い保険会社を就職先として選びました。入社してみると、4月は決算の真っ只中で、全員が電卓やそろばんで、難しそうな計算を大変忙しそうにやっていました。それが後になって、保険料、責任準備金、配当準備金、所要額などという概念であることが分かってきました。これらを理解するには、保険数学というアクチュアリー試験の必須科目の知識が必要ですが、入社前に数学Ⅰ(確率論)と保険数学Ⅰは合格していましたので、実務と本の知識を合せて理解する事ができました。コンピューターについては、数理部のアクチュアリーには電電公社(現NTT)のタイムシェアリングマシンの「デモス」という機械が開放されており、色々なプログラムを作りました。なかでも一年目として仕事に役立ったのは、この年から業界に導入された保険の下取り制度(転換制度)の、商品別、加入年齢別、経過別の転換価格の計算でした。夏休みを返上して汗を流して取り組むこと1ヶ月余りで完成し、私の計算した表が早見表として冊子に印刷され全国の営業店舗に発送されました。この時は本当に仕事をやったという充足感で満たされました。冬になると、またアクチュアリー試験がやってきました。直前の集中勉強で幸いにも、保険数学Ⅱと法律をパスすることができ、これで全6科目中4科目を合格しました。そうこうするうちに、一年目の会社生活はあっという間に終わりました。

2.留学・国際業務部時代
2年目のある日上司によばれ、米国の大学院に留学する気はないかといわれ、躊躇することなく志願しました。行き先はボストンのNortheastern University、Graduate School of Actuarial Scienceでした。受講科目は当時10Partsあったアクチュアリー試験の全科目を網羅するように組まれていました.アメリカのアクチュアリー試験は春(5月)と秋(11月)の年2回制度になっており、それぞれ、受験できる科目が限定されていました。9月から授業が始まり、Part3(Theory of Interest、とFundamentals of Numerical Analysis)の講義を受けました。やがて、11月になり第一回目の受験になりました。Part1(日本の教養課程の数学)、Part2(確率・統計)は、あるがままの実力で受けました。結果は、全3科目合格でした。アメリカ人がびっくり仰天していました。後期は、Part4(Life Contingencies)、Part5(Mortality Table Construction、Risk Theory、Graduation)、Part7(マクロ経済等)を受講しました。夏休みになると、デラウエア州ウィルミントン市のALICO本社で実務研修を受けました。こうして、留学一年目は終わりました。2年目以降になると、科目はもはや数学ではなく、保険・年金の実務レベルの専門知識になりました。論述式の後期科目は何といっても英語のハンディキャップが日本人には大変な重荷でした。そのために、カリフォルニアのコンサルティング会社でプライシングの実務研修を受けたり、ハワイの子会社で決算の実務を経験したりして、最終的に米国の正会員(FSA)になったのは1983年5月でした。帰国後、国際業務部所属で、再保険とか、米国子会社の予算・収支予測・決算などの業務を主として出張べ一スで支援しました。

3.主計部・主計課時代
1986年9月から営業研修を4ヶ月やり、翌年87年1月から主計部・主計課所属になりました。営業研修で日本の商品の現状と事務の実態を知るのに役立ちましたが、なにしろ10年近くアメリカの保険の世界で生きてきた自分にとって、日本のアクチュアリー業務は全く異質なカルチャーショックでした。それは自由市場における保険業と護送船団方式といわれる規制市場における保険業の違いそのものでした。リハビリをかねて、仕事はエクイダブル日本法人との再保険協定決算からはじまりました。明治生命本体の決算は、副長としてオーバービュー的に全般をヒアリングする形で入り込んで行きました。何分アメリカのAnnual Statementに慣れ親しんでいた私にとって、日本の決算書類の仕組みと日本の規則を理解するのにかなりの時間を要しました。生保協会の色々な委員会の資料が回覧されて来ましたが、内容が分かるようになるまで大変でした。それでも、いきなり団体年金専門委員会の委員を任され、協会活動というものに参加させて頂くようになりました。主計課の仕事は会社の数理的な経営数値を作成し、資料を頻繁に常務会に上程したり、大蔵省保険一課に色々な報告資料を作成して提出する大変重要な役割と責任を持っていました。定例予測業務のライン業務の他に、適宜必要に応じて配当財源計算などを要求されました。副長として実際の計算を経験したのち、90年4月に主計課長になりました。管理職として初めてのポストでした。肩の荷がグッと重くなったのを感じました。人を束ね、会社内外の関連部門とタイムリーに連携して組織を動かし、経営のトップに正確な数値情報を期限までに報告するように運営するのに慣れるまでしばらく大変でした。

4.法人契約設計部時代
「お前も年金の世界を勉強して来い」と上司にいわれ92年の異動で法人契約設計部所属になりました。アメリカではMcGillのFundamentals of Private Pensionsを読んでいましたので企業年金の制度的知識・積み立て方式の算式については、ある程度の知識はありました。しかし、ここでも日本の年金制度は独自の制度体系になっていました。税制適格年金の概念はアメリカから来たものですが適格要件や制度設計は全く日本独自のものでした。厚生年金基金については、公的年金の一部を代行しそこに上乗せで企業独自の加算部分を積み上げるもので、アメリカには全く無い形態でした。設立許可要件は複雑な法律になっており、一朝一夕でマスターできるものではありませんでした。私もよわい40歳になり、基金の制度試算。決算・再計算をコンピュータに向かって若い人と一緒にいくつか担当させてもらいましたが、夏場の決算は夜の11時過ぎになる日が連続し土日出勤も当然となっていて体にこたえました。93年は設計グループリーダーをやり、適格年金・基金・アメリカのFAS87計算と数多くの分野を管理し、かつ顧客の所に説明に出張に行ったりしました。この他に、団体信用保険も部の担当で、重かったのは国民金融公庫の団信でした。役所との関係もあり、適格年金は国税庁、基金は厚生省と常に相談しながら許可を受けた上で仕事を進める必要がありました。こうして、3年が過ぎました。

5.主計部収益システム開発グループ時代
95年4月の異動で、主計部に戻り、今度は収益システム開発グループリーダーとなりました。ここの仕事は、主計課と違ってライン業務はあまり持っておらず、支社別収益管理システムの構築、ALMシステムの槽築、保険計理人の意見書に使われる、責任準備金の十分性検証の将来収支分析(キャッシュフローテスト)、配当の検証のアセットシェア計算、死差益分析、商品別収益分析などの業務でスタッフ的業務がメインでした。仕事を初めて半年した所で上司の常務が社団法人日本アクチュアリー会の理事長になることが業界として決まり、常務はわたしを事務局長に指命しました。

6.日本アクチュアリー会事務局長時代
95年10月から98年3月まで、収益システム開発グループの業務に加え、社団法人日本アクチュアリー会の事務局長を兼務する事になりました。事務局は文京区小石川にあり、数名の女性スタッフと、生保・信託/損保の各社から出向で派遣された男性アクチュアリー副事務局長と私が統括責任を持つ事務局長で構成されていました。いきなり、派遣されて何をやって良いのかわかりませんでしたが、女性スタッフがベテランの方が多く助かりました。約3000人いる会員への定例的事務サービスは、女性スタッフがスムーズに処理していました。事務局長の仕事は毎月一回ある理事会の議案作りと組織の運営でした。保険行政の自由化の時代の流れの中で、生命表の作成が生保協会からアクチュアリー会に移管されることになり、最初の仕事は標準責任準備金計算用の生保標準生命表1996の作成体制を会としてどうするかでした。結果的には調査委員会と、学識経験者を含む諮問委員会を立ち上げて対応しました。同時に喫急の課題はアクチュアリーの国際化の流れの中で、海外主要国発案での国際アクチュアリー会フォーラム(IFAA)が創設され、日本もその正会員として加盟するための、諸手続きを早急に進める必要がありました。まずは、行動規範の改定でした。また、実務基準制定のプロセスがあることも条件で日本の実態を文書で説明しました。96年3月理事長代理でワシントンのIFAA代議員会に参加し、コミツトメントベースでIFAAの創立メンバー国として加盟承認となりました。引き続き定款の英文作成、懲戒規則の制定などの手続きを国際関係委員会。事務局委員会の力を借りて推進して行きました。事務局にはインターネットのメールが交信できる体制を作り、海外特にIFAAの事務局とは頻繁に交信しました。最終的には当会の懲戒規則がIFAAの条件を満たしている事が承認され真のIFAA正会員となりました。年次大会、総会、選挙等国内イベントをクリアし、試験の合格発表も当会のホームページで行うようにしました。懲戒規則は、日産生命の倒産で予期せず実際に発動されることになりました。99年8月当会は創立100周年大会をAFIR/ASTIN/IAAと三つの国際会議と合せて開催することになりました。98年3月の理事会で上司の理事長は辞任し、この大役を新理事長にバトンタッチしました。同時に私も退任することになりました。

7.生保人としての終止符
98年度も私は社業は引き続き、収益システム開発グループリーダーで4年目を続投することになりました。今まで、事務局業務で大半の時間を取られていたので、本腰で新支社別収益管理システム槽築等に取り組みました。ところが、半年たって、同年10月付で人事異動があり、職務は保険計理人付に任命されました。保険計理人の職務を補佐するのが役割で、大変名誉で責任のある仕事と受け止めました。ところが12月半ば一本の外線電話が私のデスクに入りました。ヘッドハンターからのものでした。今までも何度か経験はありましたが、すべて断ってきました。今回もそうなるかと思っていましたが、日本の金融機関全体が大変革を起している時期に、生保も今後どうなるかわからない状況でした。相手は外資系の大手コンサルティング会社で、私にアクチュアリー部門を立ち上げてほしいとの依頼でした。外人と何度か面接し話を聞き、私は転職の決心を固め明治生命を99年2月28日付で退職し、3月1日から第二の人生をスタートすることにしました。

8.エピローグ
そして2ヶ月が経ちました。私は、全世界で15万人の職員を擁する世界最大のプロフェッショナル企業、プライスウォーターハウスクーパース(PwC)の日本法人のアクチュアリーサービス部門のディレクターとなり、生保・年金両分野のグローバルレベルの数多くのプロジェクトに巻き込まれ、超多忙な日々を送つています。電子メールは世界中から入り、夜の12時を過ぎて国際電話でニューヨークのアクチュアリーと議論もします。世界に名の知れた一流企業の買収案件に伴う年金債務の評価もPwCグループの監査法人から回ってきます。401kの導入に伴う、システム管理においてはPwCがアメリカで圧倒的なシェアを持つています。日本では3つの巨大な企業連合が編成されて、共同出資でシステム開発を行い、この市場にあらゆる金融機関が参入しようとしています。PwCの戦略は、これらのグループと提携するか、独自の路線が歩むかで、大きなプロジェクトとなっています。生保部門ではDemutualization(相互会社の株式会社への転換)が、資本調達の手段として、多くの会社で現実的な選択肢となっており国内の法整備が急がれていますが、PwCはアメリカでプルデンシャル生命、メトロポリタン生命のdemutualizationの総合アドバイザーとなり、今まさにその壮大な作業が進行中です。私は、米・英の担当のヘッドアクチュアリーと連携し、日本の生保への具体的プロポーザルを行つています。スタッフも英国事務所からは、ケンブリッジ大学卒で、3年で英国ア会の正会員となつた優秀な若手アクチュアリーが派遣され、日本人スタッフの採用も徐々に成功し、事業を立ち上げる喜びの充実感に満たされてます。一方で、コンサルティングアクチュアリーとなったことの自覚も深く感じています。アクチュアリーの行動規範、懲戒規則、実務基準などは、保険会社に務めている限り保険計理人は別として、日常は余り意識することはなかったものですが、独立コンサルティングアクチュアリーとして署名するような立場になると、株主の代表訴訟などを常に意識せねばなりません。規制緩和の時代の流れの中で、自律した職業団体のプロフェッショナリズムの持つ意義が、日本においてもますます重要になってきています。保険会社の一職員として働く場合、会社の人事報酬・ローテ制度が旧態依然のままであっては、アクチュアリーは自己のプロとしてのスキルを自分の意思通りに持続的に伸ばして行くことは本人の努力だけでは極めて困難と感じました(現在、生保のみならず、日本企業全体がHR(Human Resources)制度の見直しを迫られています)。しかし、私に独立したプロフェッショナルとして生きることを可能にしたのは、コンサルタントへの転身であり、その礎を築いたのは23年間にわたる生保アクチュアリーとしての様々な場(海外、主計、年金、ア会事務局)での経験の蓄積であったと思います。私は、自分をここまで育て様々な場面で公私ともにお世話になった明治生命、アクチュアリー会関係者各位及びアクチュアリーの友人と、社内の諸先輩・同僚・若手の方々にこの場を借りて心から感謝の意を表したいと思います。

最後に、生保(社内及びコンサルタント)アクチュアリーの今後について付言しますと、

①伝統的なアクチュアリー領域(保険価格計算、責任準備金評価、保険計理)において、今後とも数学的素養を持つもののニーズは高まる。

②加えて、リスクマネジメント、ALM領域において、確率過程をはじめとする数学的素養が有用になる傾向は、今後更に強まる。

③また、今後、生保の再編が取りざたされており、M&Aにおける生保の企業価値の評価の面でも、アクチュアリー(特にコンサルタント)へのニーズが発生する。

と、思われます。

(1999年3月5日提出)
(よしだひでゆき・プライスウォーターハウスコンサルタント㈱ディレクター)

なお当社代表取締役社長 吉田英幸は引き続き以下を歴任しています。

2010年
AONのHead of Analytics/Senior Advisorとして、生損保会社の分析やカタストロフィモデル制作チームをまとめる。

2012年
i Holdings Co.,Ltdのチーフアクチュアリーとして新設生命保険会社の免許取得業務を担当。

 2014年~2018年
Prevoirベトナム生保の保険計理人業務を受託。 リスク管理委員会の委員長や最高財務責任者(CFO)も務める。

 公益社団法人日本アクチュアリー会正会員:FIAJ
米国アクチュアリー会正会員:FSA
米国アクチュアリー学会正会員:MAAA
米国コンサルティングアクチュアリー協会正会員:FCA
公益社団法人日本アクチュアリー会元理事、現参与
国際コンサルティングアクチュアリー協会(IACA)  元会長
アジア・パシフィック地域コンサルティング・アクチュアリー協会(ACCA)現会長

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